今日、ある作品のあるシーンに触れた。たぶん三流の作家でも、作れるような、ありふれたシーンだ。
内容は、
「私は死ぬべき人でした。あの時、死ぬべきだった。」
「死ぬべき人間?ふざけんな、うちは、あんたが大好きなんじゃボケェ!!ばかやろう!!」(号泣)
「俺も、同じだ。お前が死のうとしたら、俺は何度でも止める。」
三人の登場人物の、むっちゃベタなシーンです。しかし人間、十人十色で、私には、この三流のやり取りが、とても身に染みた。
私は、精神科に長くかかっている自殺願望の強い精神が壊れた人間だ。
自分が死ぬべき人間という一番目の登場人物と自分の心はかなり似ていた。
なら、死ねば?生きたいのに生きられない人に失礼やろ!!死んでまえ!!
と思う人は多分たくさんいるだろう。理にかなった当然の意見だ。
なら、なぜ、死なない?
なぜ、死なないの?
死ねばいいのに!
死んだら良かったのに!
なぜ、死にたいのに生きていたくないのに歯を食いしばって、生きているのか?
それは、私が三流の作家でも、作れると馬鹿にした、やり取りに近いものが私にも、あるからだ。両親が悲しむ、妻が路頭に迷う、数少ない友達は、どのくらい悲しむかは分からないけど、両親と妻に関しては、まず間違いないと思う。妻は視覚障がい者で、そのうえ働きに出るのを頑なに拒んでいるから。
あとは、私は確かに欠陥品で、死にたくない人の気持ちが全く理解出来ない。
しかし、私も両親が死んだら悲しい、妻が死んだら悲しい友達が死んだら悲しい。いや、悲しいだけではなく、耐えられない。発狂して今以上に、おかしくなると思う。どこまで壊れるか想像も出来ないし、それ以前に、大切な人が死ぬことなんて、想像したくない。
へんな話しだが、自分以外の人の死に関しては健常者と同じ模様だ。
だから、自分の満足の為に死ぬのは、大切な人の心をえぐる行為だと、自分の心に、置き換えて考えているから私は今も生きている。